以前にもお伝えしたかもしれませんが、

アミークスには、日常の授業を映像で記録することで、

子どもたちの成長を検証していくプロジェクトがあります。

期間は3年間です。学校が開校し、

3月の末で1年が過ぎました。

プロジェクトの撮影は年に4回行われました。

先月そのうちのごくごく一部の映像を見ることができました。

ダイジェスト版ですが、時系列に沿って、

1回目、2回目、3回目、4回目と100時間以上の

映像素材が1時間20分ほどにまとめられています。

今回このダイジェスト版を作った目的は、

この先の2年間の撮影について考えるためです。

映像を観て、教師をはじめ関係した大人の心は

ちりぢりになります。

実際に子どもを教えている先生方は、

子どもたちの1年の成長を観て、この1年間を思い出し、

様々に考えるところがあったはずです。

誰もが共通して思ったことは、たぶんその「リアルさ」でしょう。

1年前の子どもと1年後の子どもを

同時に見るなんてことは、普通では

ありえないことです。

映像の中で子どもたちは様々な表情を見せてくれます。

子どもひとりひとり、その成長の様子は

一様ではないのです。映像というのは、

非常に多くの情報量がつまっています。

紙のレポートではたとえば『よくできるようになった』で

済ましてしまうようなことでも、映像の中では、

スピーキングひとつとっても、話すスピードから

発音から細かい間違いや、その時の子どもの表情まで

記録されています。子どもたちの成長が

手に取るように見てとれるのです。この映像の中で

起きていることは、何もアミークスだけの特殊なことではなく、

どこの学校の、どこのクラスでも起こっていることなんだと思います。

やっぱり子どもたちの成長は非常にデリケートなものです。

ところが学校では子どもの成長というと、

たいていの場合はテストで確かめることになります。

テストで学力を見ることは学校でも家庭でも

当たり前のように思ってしまいますが、

考えてみれば子どもの成長というのはきわめて

「質の問題」です。それをテストは何点何点

という「量の問題」に換えるというのです。

これは乱暴だなあと、今回の映像は

教えてくれます。「質」を「量」に置き換えたいのは、

そのほうが便利だという大人の側の理由から

生まれたことなのでしょう。子ども同士を比べるにしても

数字があれば比べやすいし、子どもを励ますにも、

誉めるにも数字は便利に働く。

子ども自身も数字というのは目標にしやすい。

考えてみれば数字というのは便利に見えます。

ただそれは細かくて、デリケートで、

いわば面倒くさいことを全部平たくしてるから

便利なだけかもしれません。算数の得意な子どもと

国語の得意な子どもは別々の才能のはずです。

才能の「質」は別々のはずです。

ところがその点数を算数も国語もいっしょに合計してしまえば、

その2人の才能は見にくくなります。

国語の得意な子と算数の得意な子では競争になりませんが、

テストをして点数をつけ、さらに合計したりすれば、

国語が得意も算数が得意もなくなって、合計点だけで、

どっちが勝った負けたになってしまいます。

「質」は「量」に換えることで、状況はまったく変わってしまいます。

教育とはある意味で、その時代時代が求める

人間像や生き方を子どもたちに押しつけることでもあります。

それは歴史をみればわかることです。

子どもたち自身が生き方を選んでいるわけではありません。

その社会や学校から求められている「生き方」が

子どもたちに嫌だと思われてしまったら、

単に教育の現場は成り立たないものなのです。

アミークスのパンフレットに「アミークスは求めません。

求めるのは子どもたちです。」とあるのは、

子どもたちに生き方を強制したくない、

「量」だけで子どもたちを見たくないということでもあります。

映像の中の子どもたちの成長を見ると

さらにそのデリケートさを守ることの大切さを感じます。

教師の優秀さというのは様々に語られます。

経験豊富な先生や要領よく教えてくれる先生が

よい先生といわれますが、映像を見ていると、

先生の力量というのはばらばらに存在する子どもたちに、

きちんと対応できるのかどうかなのではないかと思います。

つまり、いい先生というのは「対応力」のある

先生なのではないかと思えます。

クラスには30人の子どもたちがいます。

ひとりひとりをワンツーマンで対応することはできません。

それでもひとりひとりの子どもを見ながら

全体を進めている先生もいます。対応力が教師力だとすれば、

それまでの経験だけでは語り切れないことにもなります。

クラスひとつひとつにオリジナルの教師像があります。

そこにいろいろな理想の教師説が生まれながらも、

普遍的に理想の教師像がひとつに集約されない理由は、

「対応力」という不確定なモノサシこそ大切だからかもしれません。